鉄動画をだらだら漁っていた。

こ、これは……!しかも京急公式動画

こんな貴重な映像があったとは。

昭和50年代か。ちょうどその頃、羽田線(現・空港線)は時おり乗ったから、よく憶えているよ。

大鳥居駅ちかくに萩中公園てのがあってね。親父に、そこに連れてってもらうのが楽しみだった。廃車になった電車や蒸気機関車、トラックや建機なんかを置いた「がらくた公園」が大好きだった。

今でも男の子には大人気のようだ。電車賃使ってでも行く価値あり。

当時の羽田線は、よく知られているが羽田空港には直結していなかった。

羽田空港駅」とは名ばかり。空港から離れていて、飛行機に乗るために使う人なんていないとは、よく大人から聞いていた。

実は品川とも横浜とも繋がっていなかった頃の、京浜急行では3番目に古い路線。

1番目は京急のルーツである大師線。2番目は、JR京浜東北線大森駅から大師線六郷橋駅(廃止。京急川崎〜港町の間にあった)だが、これは廃線とっている。

1902年開業の羽田線…そのときは穴守線と言う名だったが、文字通り穴守稲荷の参拝客のために敷設された。川崎大師もそうだけど、レジャーが少なかった当時は、寺社参詣客だけで儲かる見込みが十分あった。

しかも明治期、健康増進に良いとして海水浴が推奨されたことにより、良質のビーチがあった羽田や大森の海際は、海水浴客が多く訪れた。今では工業地帯でどこにもビーチなんて無いが、大森海岸という駅名はその名残り。

後の三浦半島開発への京急の強い熱意は、このときに芽生えたと考えていいだろう。

羽田空港なんてものができることは、当時の人たちは誰も想像していなかった。

だってライト兄弟が初めて空を飛んだのは、穴守線開業の翌年だもの。人が空を飛ぶなんて、まだSFのような話だった。

しかしその十数年後には、広い土地があった羽田に試験的な滑走路が作られる。

穴守線開業から29年後、ついに民間航空機も離発着する羽田飛行場が誕生した。

しかし京濱電氣鐵道は、それには無頓着だったと思う。国内はもちろん、満州にまで旅客機が飛ぶ時代になったが、それに乗れる人はほんの一握りのリッチマンか、高級将校または政府高官だけだ。そんな人たちは、運転手付きの乗用車で乗りつけるだろう。電車に乗るのは空港勤務者くらいなもので、たかが知れている。

羽田飛行場は戦後、米軍に接収され、京浜急行はますます飛行機から遠ざかった。

いよいよ飛行機の時代となり、京急羽田空港へ手を伸ばしかけたが、なかなか空港まで線路が届かなかった。その顛末は、以前に書いた。

http://SNS.jp/view_diary.pl?id=1911442863&owner_id=108525

この動画の通り、線路はぼろい貧弱な単線。電車はガタピシ。昼間は立ち客もいない。

踏切のシーンも見ものだね。踏切番がハンドルを回して遮断機を操作する。おいらが子供の頃は、京急本線でも見覚えがあった気がする。でもそんな手動踏切と、今や関東では、JR鶴見線のそのまた支線の一か所に見られるのみだがね。

当時は踏切の自動化だって、カネがかかって大変だったろうけど、踏切番の人件費だってバカにならない。当然、羽田線は赤字路線だったはず。

にも関わらず、京浜急行は頑張って羽田線を維持した。いつか必ず、羽田空港に線路を延ばしてみせるという執念のあらわれとも聞くがね。

JRも、新幹線の大井車両基地から羽田空港への延伸を目論んでいた。ついに国土交通省から延伸許可を得て、社運を懸けて突貫工事で蒲田駅を改築したり羽田線を地下化した(踏切の多い地上線では、事故が起きやすい)のは、このチャンスを絶対に逃したくなかったからでしょう。

んー…。空港線について、長々と語りすぎた。

230形については、また明日、長々と語りましょう。